両者の違い

日本書紀と『古事記』の異なる点は、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
とある。その意味は
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということだそうだ。

仮名が使われていた

キルケゴールについて。少し意外なのは、初期の頃は仮名をよく使っていたという事だ。

日本語では、「セーレン・オービエ・キルケゴール(キェルケゴール)」との表記が通用しているが、デンマーク語の原音に近いカタカナ表記は「セアン・オービイ・キアケゴー」である。セーレンという表記もキェルケゴール(キルケゴール)という表記も、日本のキルケゴール受容が、主にドイツ語文献を経由してすすんだことによるところが大きいと考えられる。

キェルケゴールの初期の著作の多くはさまざまな仮名を使って書かれている。また、ある仮名の著者が、それ以前に書かれた作品の(これまた)仮名の著者に対してコメントすることもしばしばあった(最も顕著なのは『哲学的断片への結びとしての後書き』だろう)。もちろんすべての著作はキェルケゴールによって書かれたわけだが、そのさまざまな仮名使用のために彼の著作は一貫した解釈が難しいことがある。キェルケゴールはそのかたわらで本名での著作も発表しており、彼自身は再三、偽名の著者たちと自分を取り違えないでほしい、と主張していた。こちらは現在まであまり読まれていない。

PODの影響

前田日明の自伝、パワーオブドリームによって、格闘家としての未来を夢見た、という選手。

山本喧一は、その一人だ。

複雑な環境に育った山本氏は、パワーオブドリームを読んで空手を始め、いつしかUWFインターへ。

リングスにしなかったのは何故だろう。

1993年にUWFインターナショナルに入門し、1994年に本名・山本 健一で桜庭和志戦でデビュー。1995年9月から新日本プロレスとの全面対抗戦が始まると、高山善廣、安生洋二と「ザ・ゴールデン・カップス」を組み活躍。1996年12月のUインター解散後は後継団体のキングダムを経て、1998年にリングスに移籍(3月28日の興行から出場、7月5日付けで正式所属)。だが、検査で頭に透明中隔嚢胞という腫瘍(良性)が発見され、安全面での問題が出てきたことが理由で、1999年1月23日の試合を最後にリングスを退団することになる。退団を機にリングネームを山本 喧一に改名。UFC 23で行われたUFC-J無差別級トーナメントに優勝した際、当時のリングスのエース田村潔司に「偽善者田村!俺と闘え!」とガチンコマッチを要求し、物議をかもしたこともあった。

睡眠薬は、脳を強制終了させる薬

眠れない日が続いて、睡眠薬に頼っているという人は結構多い物です。

確かに眠れない症状は、不眠症になった人だけが分かる大変な苦しさです。

ところが、睡眠薬とは端的にいうと、脳を強制終了させる薬なのです。

神経に作用する薬剤なので、注意しなければいけません。

副作用のある睡眠薬に頼らず、ぐっすり眠れる方法はないでしょうか。

小僧の神様によって

小僧の神様によって、滋賀直哉は小説の神様と言われるようになる。

神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。

しかし、Aに見られていたことを知らない仙吉は「どうして鮨を食いたいことをAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。

ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し残酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。

後漢書

『後漢書』東夷伝の中には倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」は成立は280年代とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基に作られているとされるが、反論を唱える学者もいる。

「魏志倭人伝」にない記述として、安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 永初元年(107年)に倭国王帥升が人材(労働者)を百六十人を献上したとある。これが史料に出てくる初めての倭人と言うことになるが、一文のみで詳しいことは分かっていない。一説には万里の長城の建設人員を倭国に求めたという。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱についても桓帝・霊帝の間(146年 – 189年)と非常に大まかではあるが年代の指定がある。

カラスのジョンソン

カモメのジョナサンならぬ、カラスのジョンソン。

かつてドリアン助川として叫ぶ詩人の会を率いた、明川哲也の小説。

傷ついた一羽のカラスと二人の人間が出会い、物語は始まる。

二人きりで生きる母と息子に、傷を癒されたカラスは野生に帰り

生きることの困難の中で、それぞれが季節をこえていく。

都会の害鳥として処分されてしまう、カラスたちの叫びと悲しみ。

生活の困難に耐えきれず、親子もまた窮地にたたされる。

まっすぐに蹴る

佐竹雅昭の著書。

一言で表してしまえば暴露本である。

「大卒後、テレビ局の内定を蹴って正道会館の専従職員となった」「しかし驚くような少ない給与でコキ使われた」「ファイトマネーを石井氏に搾取された」「自分の知らない所で勝手に試合が組まれ、奴隷のように酷使された」「得をするのは奴隷を酷使する奴隷商人」「過酷な試合スケジュールの中で心身ともにボロボロになった」「死亡した後輩(→実名を公開)もいる」「石井氏を空手の師と思ったことはない」

結構凄い内容だ。

 

和書

日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。日本にいつ紙が入り、製紙術が伝えられたのかは分かっていない様子だ。日本書紀には、610年に曇徴が来朝し、絵具・紙・墨を巧みに作ったと記されている。おそらくは日本における碾磑(みずうす)の創製者であるとは書かれているものの絵具・紙墨については言及がない。

したがって、彼が来朝する以前には製紙術は伝わっていただろうと考えられる。現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮、三椏などですいた優れた紙の本が生まれている。

二つの名前

カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カーだった。

前者の方がペンネームなのだという。

ペンシルベニア州ユニオンタウンに生まれる。父ウッダ・ニコラス・カーは弁護士で下院議員や郵便局長も務めた。1921年にハイスクールの学内誌に発表した推理小説が最初の創作である。ハヴァフォード・カレッジに在学中も、学生雑誌に歴史小説やアンリ・バンコランの登場する推理小説を発表する。同人の中にはやはり作家として名を上げるフレデリック・プロコシュ(Frederick Prokosch)がいた。数学の単位が取れず2年で中退するとパリに遊学した。

帰国後、同人誌に発表した中編「グラン・ギニョール」(Grand Guignol 1929年)を長編化した『夜歩く』(1930年)が評判となり、専業作家の道が開けた。同作は発表年のうちに邦訳が刊行されている(『夜歩く』 内山賢次訳 天人社刊)。1932年にイギリス人クラリス・クリーヴスと結婚してブリストルに居を構えた。1946年まで続くイギリス時代に代表作の多くは発表されている。翌年には、二つの名前でより多くの作品とより多くの収入をと考え、『夜歩く』や『魔女の隠れ家』(1933年)に似たトリックを用いた『弓弦城殺人事件』を執筆し、クリストファー・ストリート(Christopher Street)というペンネームまで決めていたが、カー・ディクスン(Carr Dickson)という実質本名に等しい名の下に刊行されるというトラブルが発生した。これは問題の名義を手直ししてカーター・ディクスンとすることで解決した。ディクスンの正体は1950年代まで公式には明言されなかった。1934年にはロジャー・フェアベーン(Roger Fairbairn)名義でも一作を刊行するが、生前は秘密だった