村田兆治

1年目の1968年は振るわなかった。当時はドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。そんなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。村田は球界を代表するベテラン投手である小山が、若手である自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰っていった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭された。これに感激した村田は、以降練習に真剣に打ち込むようになったという。また、打撃の練習に対して非常に厳しい姿勢を見せていた榎本喜八にも、プロ野球選手として影響を受けた。

球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、6勝を挙げる。1970年にはリーグ優勝を経験。1971年、金田正一のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造し、いわゆる「マサカリ投法」を完成させる。同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。日本シリーズでは胴上げ投手になった。

サントリーと銀行の関係

メインバンクは三和銀行→UFJ銀行→三菱東京UFJ銀行であり、旧三和グループ系の三水会及びみどり会にも加盟している一方、三井グループの広報を務める団体・三井広報委員会にも加盟していたため三井系の企業とみなされることもあるが、同じ関西系企業の住友グループとの繋がりも非常に強い。事実、多くの住友系企業のビル内部にはアサヒ飲料とサントリーの2社の自動販売機が設置されている。また、住友系と目されているダイキン工業との繋がりも非常に強固であり、特にサントリー及びダイキン工業の先代経営者だった、佐治敬三と山田稔とは個人的にも非常に親しい関係であった。山田の子息がサントリーに入社している事からもその事が伺える。

エルズワース・ハンティントン

ハーバード大学とイェール大学で地質学を修める。1897年から1901年にかけてトルコのユーフラテス・カレッジ(Euphrates College)で教鞭を執り、1903年にラファエル・パンペリー(Pumpelly)と、1905年から1906年にバレット(Barrett)とともに中央アジアの探検に出かけた。

その体験は『トルキスタンでの探検』(Explorations in Turkestan、1905年刊)と『アジアの鼓動』(The Pulse of Asia、1907年刊)に綴られている。1907年からはイェール大学で地理学の授業を担当し、1915年まで続け、1917年からは同学の研究員として気候学と人文地理学(人類地理学)の研究に主に時間を費やした。

レイナルド・アーン

1887年今日最も有名な「私の詩に翼があったなら」を作曲。15歳でアルフォンス・ドーデに劇音楽の作曲を依頼されるほどであった。ドーデ(Daudet, Alphonse 1840-1897)は《アルルの女》を書いたすでに有名な作家であった。フランスでは現在もフォーレと共に愛唱される彼の歌曲は、ほとんどが20歳以前の作品であり、採用された詩はヴェルレーヌ、ユゴー、ゴーティエ、ルコント=ド=リール、バンヴィルらに及んだ。アーン少年はサロンにて師匠マスネやフォーレ、シューベルトの歌曲をピアノで弾き歌いをした。

台湾銀行

日本統治時代の台湾銀行とは、台湾領有に伴う大日本帝国政府の国策により、台湾銀行法(1897年3月公布)によって1899年6月に設置された台湾の中央銀行である。紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。

特殊銀行であるが単純なものではなく、貿易銀行であり植民地銀行であり一般商業銀行であり台湾における国庫金の取扱いを行うなどいろいろなことを行っていた。1899年に開業、1945年に閉鎖された。本店:台北市、支店数31、出張所1。

アルフレート・フォン・ティルピッツ

ティルピッツは現在のゲーム理論の一種とも言える「リスク理論」を展開し英独海軍軍拡競争によって英国はドイツ海軍を牽制し対決を回避すると提唱していた。しかし、このティルピッツの読みは結局外れ、英独関係は悪化の一途をたどることになる。1911年海軍元帥となる。3年後の1914年第一次世界大戦が勃発する。

ティルピッツは海軍大臣として軍政担当者の立場から、ドイツ海軍の作戦内容に意見を反映させることは余りなかった。ドイツ海軍、太洋艦隊は、英国本国艦隊の戦力を警戒し、艦隊決戦にはユトランド沖海戦を除き、積極的には出なかった。むしろ潜水艦による通商破壊活動を展開し、Uボートによる無制限潜水艦作戦を実施していった。1916年潜水艦作戦をめぐり、海軍大臣を解任され、後任にはエドゥアルツ・フォン・カペレ (Eduard von Capelle) が就任した。

山﨑豊子

初期の作品は船場など大阪の風俗に密着した小説が多く、その頂点が足袋問屋の息子の放蕩・成長を描いた『ぼんち』であり、市川雷蔵主演により映画化された。1961年(昭和36年)『女の勲章』取材中に元同僚と結婚。1963年(昭和38年)より連載を始めた『白い巨塔』は大学病院の現実を描いた鋭い社会性で話題を呼び、田宮二郎主演で映画化されたほか、数回に亘りテレビドラマ化された。これも大阪大学医学部がモデルとなっており、大阪の風俗が作品への味付けとなっている。神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとした経済小説、『華麗なる一族』も佐分利信の主演で映画化され、さらに2度に亘りテレビドラマ化された。

御園座

1895年、名古屋の財界有志により名古屋劇場株式会社が創立され、長谷川太兵衛が初代社長に着任した。長谷川は東京や京都などの劇場を回り、東京・明治座を手本とする劇場を建設。翌1896年6月19日、初代市川左團次一座の杮落としで開場した。

1935年には劇場が完成したが、名古屋大空襲で全焼。1947年に再建。しかし1961年の火災で再び焼失。再建後、御園座会館を完成させ、ボウリング場やビリヤード場を開設(1974年閉鎖)。地階には御園座演劇図書館があり、演劇に関する資料・書籍を所蔵している。

石川喬司

1953年、東京大学文学部仏文学科卒業。同年、毎日新聞社に入社。新聞記者・『サンデー毎日』編集者の傍ら文筆生活に入る。日本初めての本格的SF評論家として盛んに評論活動を行い、1963年3月5日、福島正実、星新一、小松左京ら10人と共に日本SF作家クラブを設立。また、あわせてミステリ評論も行った。

出版局編集次長を経て、1971年に毎日新聞社を退社。1978年、『SFの時代』により日本推理作家協会賞受賞。SF作家としても活動し、代表作に、自らの悲惨な戦争体験に基づく『魔法つかいの夏』がある。

1979年には東京大学にて「文学と時間」と題する講義をおこない、日本の大学における最初のSF講座として話題を呼んだ。このほか、NHKでレギュラー番組を持っていた事もある。

競馬にも造詣が深く、競馬評論家としても知られ、フジテレビ「チャレンジ・ザ・競馬」にレギュラー出演していた。当人は馬家(ばか)を自称。

野呂榮太郎

1930年(昭和5年)1月、日本共産党に入党。2月20日『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より発刊され、1932年(昭和7年)5月より、マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わる。日本資本主義論争においては山田盛太郎、平野義太郎とともに講座派の中心人物とみなされた。しかし、病気と弾圧のために、野呂自身はこの講座に論文を執筆することはできなかった。

1932年(昭和7年)10月30日の熱海事件により党員が大量に検挙され、共産党は壊滅状態に陥る。

1933年(昭和8年)1月、肺結核で療養中であったが、3名の中央委員の一人として、指導部の再建に努める。 1933年(昭和8年)5月3日、党中央委員長山本正美が逮捕され、5月9日産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれる。党中央委員長となり宮本顕治らと再建活動を活発化させる。また塩沢富美子と結婚(時節柄、入籍はせず、事実婚)。8月1日の国際反戦デーに、ストライキ及びデモ活動を呼びかけるも失敗。8月23日、産業労働調査所が閉鎖される。9月6日の国際青年デー、9月18日満州掠奪戦争一周年記念日と反戦のための行動を矢継ぎ早に指示するもいずれも失敗。