スカンディナビア

紀元前2100年になるとイギリスのストーンヘンジに代表される巨石文化が伝播し、巨石墳を製造して合葬を行うトレヒテルベーケル文化(Trichterrandbecher culture)が形成された。

この時代に入ると石器類の製造技術にも飛躍的な発達が見られ、厚頭斧やフリントの打製短剣などが登場している。紀元前1000年ごろよりユトランド半島中部や西部で単葬墳が見られるようになると次第に周囲へと広がって行き、単葬墳文化(Single Grave culture)が生まれる。

また同じ頃、バルト海東岸やフィンランド西南部では舟形斧文化(Boat Axe culture、キウカイネン文化とも)が生まれている。これらの文化での遺物や遺構などから部族(キウカイヌ)の成立、階級の分化が始まっていたと見られており、インド・ゲルマン人の侵入も相俟って北欧の地は戦乱の時代へと突入していくこととなる

ハンス・モーリッシュ

1889年からオーストリア南東部グラーツ工科大学で助教授になり、鉄が植物の緑化に不可欠であること、植物の根が屈湿性を、花粉管が屈化性を示すことなどを発見している。1894年からはドイツプラハ大学(当時プラハ大学はドイツ語とチェコ語で分裂していた)の教授となり、植物の凍死や鉄細菌などを研究した。1897年からウィーン科学アカデミーの出資により東南アジアへ調査旅行に出る。ジャワ滞在中に、インディゴ染料の発色が発酵ではなく化学プロセスであることなどを発見している。

帰国途中の1898年2月に日本に立ち寄り、当時小石川植物園にあった東京帝国大学植物学教室を訪れている。1909年にヴィースナーの後任としてウィーン大学の教授となる。しかしウィーン大学では研究環境に恵まれないまま第一次世界大戦の戦渦に巻き込まれ苦労を強いられた。この頃に徳川義親から50ポンド(当時500円)の寄付を受けている。

木田優夫

12月5~7日に東京ビッグサイトで開催されていた展示会「SPORTEC2013」で、スポーツ選手のキャリアプランについて講演した木田選手。1986年にドラフト1位指名で投手として読売巨人軍に入団すると、4年目に2桁勝利を挙げて本格的に頭角を現し、97年まで巨人で活躍。98年にオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)に移籍した後、99年にはフリーエージェント権を行使してメジャーリーグに挑戦。デトロイト・タイガースなど3球団を渡り歩いた後、2006年に日本球界へ本格復帰した。2012年にプロ野球界を去り、2013年は独立リーグの石川ミリオンスターズでプレー。

村田兆治

1年目の1968年は振るわなかった。当時はドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。そんなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。村田は球界を代表するベテラン投手である小山が、若手である自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰っていった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ、「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭された。これに感激した村田は、以降練習に真剣に打ち込むようになったという。また、打撃の練習に対して非常に厳しい姿勢を見せていた榎本喜八にも、プロ野球選手として影響を受けた。

球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し、6勝を挙げる。1970年にはリーグ優勝を経験。1971年、金田正一のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造し、いわゆる「マサカリ投法」を完成させる。同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。日本シリーズでは胴上げ投手になった。

サントリーと銀行の関係

メインバンクは三和銀行→UFJ銀行→三菱東京UFJ銀行であり、旧三和グループ系の三水会及びみどり会にも加盟している一方、三井グループの広報を務める団体・三井広報委員会にも加盟していたため三井系の企業とみなされることもあるが、同じ関西系企業の住友グループとの繋がりも非常に強い。事実、多くの住友系企業のビル内部にはアサヒ飲料とサントリーの2社の自動販売機が設置されている。また、住友系と目されているダイキン工業との繋がりも非常に強固であり、特にサントリー及びダイキン工業の先代経営者だった、佐治敬三と山田稔とは個人的にも非常に親しい関係であった。山田の子息がサントリーに入社している事からもその事が伺える。

エルズワース・ハンティントン

ハーバード大学とイェール大学で地質学を修める。1897年から1901年にかけてトルコのユーフラテス・カレッジ(Euphrates College)で教鞭を執り、1903年にラファエル・パンペリー(Pumpelly)と、1905年から1906年にバレット(Barrett)とともに中央アジアの探検に出かけた。

その体験は『トルキスタンでの探検』(Explorations in Turkestan、1905年刊)と『アジアの鼓動』(The Pulse of Asia、1907年刊)に綴られている。1907年からはイェール大学で地理学の授業を担当し、1915年まで続け、1917年からは同学の研究員として気候学と人文地理学(人類地理学)の研究に主に時間を費やした。

レイナルド・アーン

1887年今日最も有名な「私の詩に翼があったなら」を作曲。15歳でアルフォンス・ドーデに劇音楽の作曲を依頼されるほどであった。ドーデ(Daudet, Alphonse 1840-1897)は《アルルの女》を書いたすでに有名な作家であった。フランスでは現在もフォーレと共に愛唱される彼の歌曲は、ほとんどが20歳以前の作品であり、採用された詩はヴェルレーヌ、ユゴー、ゴーティエ、ルコント=ド=リール、バンヴィルらに及んだ。アーン少年はサロンにて師匠マスネやフォーレ、シューベルトの歌曲をピアノで弾き歌いをした。

台湾銀行

日本統治時代の台湾銀行とは、台湾領有に伴う大日本帝国政府の国策により、台湾銀行法(1897年3月公布)によって1899年6月に設置された台湾の中央銀行である。紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。

特殊銀行であるが単純なものではなく、貿易銀行であり植民地銀行であり一般商業銀行であり台湾における国庫金の取扱いを行うなどいろいろなことを行っていた。1899年に開業、1945年に閉鎖された。本店:台北市、支店数31、出張所1。

アルフレート・フォン・ティルピッツ

ティルピッツは現在のゲーム理論の一種とも言える「リスク理論」を展開し英独海軍軍拡競争によって英国はドイツ海軍を牽制し対決を回避すると提唱していた。しかし、このティルピッツの読みは結局外れ、英独関係は悪化の一途をたどることになる。1911年海軍元帥となる。3年後の1914年第一次世界大戦が勃発する。

ティルピッツは海軍大臣として軍政担当者の立場から、ドイツ海軍の作戦内容に意見を反映させることは余りなかった。ドイツ海軍、太洋艦隊は、英国本国艦隊の戦力を警戒し、艦隊決戦にはユトランド沖海戦を除き、積極的には出なかった。むしろ潜水艦による通商破壊活動を展開し、Uボートによる無制限潜水艦作戦を実施していった。1916年潜水艦作戦をめぐり、海軍大臣を解任され、後任にはエドゥアルツ・フォン・カペレ (Eduard von Capelle) が就任した。

山﨑豊子

初期の作品は船場など大阪の風俗に密着した小説が多く、その頂点が足袋問屋の息子の放蕩・成長を描いた『ぼんち』であり、市川雷蔵主演により映画化された。1961年(昭和36年)『女の勲章』取材中に元同僚と結婚。1963年(昭和38年)より連載を始めた『白い巨塔』は大学病院の現実を描いた鋭い社会性で話題を呼び、田宮二郎主演で映画化されたほか、数回に亘りテレビドラマ化された。これも大阪大学医学部がモデルとなっており、大阪の風俗が作品への味付けとなっている。神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとした経済小説、『華麗なる一族』も佐分利信の主演で映画化され、さらに2度に亘りテレビドラマ化された。