アルフレート・フォン・ティルピッツ

ティルピッツは現在のゲーム理論の一種とも言える「リスク理論」を展開し英独海軍軍拡競争によって英国はドイツ海軍を牽制し対決を回避すると提唱していた。しかし、このティルピッツの読みは結局外れ、英独関係は悪化の一途をたどることになる。1911年海軍元帥となる。3年後の1914年第一次世界大戦が勃発する。

ティルピッツは海軍大臣として軍政担当者の立場から、ドイツ海軍の作戦内容に意見を反映させることは余りなかった。ドイツ海軍、太洋艦隊は、英国本国艦隊の戦力を警戒し、艦隊決戦にはユトランド沖海戦を除き、積極的には出なかった。むしろ潜水艦による通商破壊活動を展開し、Uボートによる無制限潜水艦作戦を実施していった。1916年潜水艦作戦をめぐり、海軍大臣を解任され、後任にはエドゥアルツ・フォン・カペレ (Eduard von Capelle) が就任した。

山﨑豊子

初期の作品は船場など大阪の風俗に密着した小説が多く、その頂点が足袋問屋の息子の放蕩・成長を描いた『ぼんち』であり、市川雷蔵主演により映画化された。1961年(昭和36年)『女の勲章』取材中に元同僚と結婚。1963年(昭和38年)より連載を始めた『白い巨塔』は大学病院の現実を描いた鋭い社会性で話題を呼び、田宮二郎主演で映画化されたほか、数回に亘りテレビドラマ化された。これも大阪大学医学部がモデルとなっており、大阪の風俗が作品への味付けとなっている。神戸銀行(現在の三井住友銀行)をモデルとした経済小説、『華麗なる一族』も佐分利信の主演で映画化され、さらに2度に亘りテレビドラマ化された。

御園座

1895年、名古屋の財界有志により名古屋劇場株式会社が創立され、長谷川太兵衛が初代社長に着任した。長谷川は東京や京都などの劇場を回り、東京・明治座を手本とする劇場を建設。翌1896年6月19日、初代市川左團次一座の杮落としで開場した。

1935年には劇場が完成したが、名古屋大空襲で全焼。1947年に再建。しかし1961年の火災で再び焼失。再建後、御園座会館を完成させ、ボウリング場やビリヤード場を開設(1974年閉鎖)。地階には御園座演劇図書館があり、演劇に関する資料・書籍を所蔵している。

石川喬司

1953年、東京大学文学部仏文学科卒業。同年、毎日新聞社に入社。新聞記者・『サンデー毎日』編集者の傍ら文筆生活に入る。日本初めての本格的SF評論家として盛んに評論活動を行い、1963年3月5日、福島正実、星新一、小松左京ら10人と共に日本SF作家クラブを設立。また、あわせてミステリ評論も行った。

出版局編集次長を経て、1971年に毎日新聞社を退社。1978年、『SFの時代』により日本推理作家協会賞受賞。SF作家としても活動し、代表作に、自らの悲惨な戦争体験に基づく『魔法つかいの夏』がある。

1979年には東京大学にて「文学と時間」と題する講義をおこない、日本の大学における最初のSF講座として話題を呼んだ。このほか、NHKでレギュラー番組を持っていた事もある。

競馬にも造詣が深く、競馬評論家としても知られ、フジテレビ「チャレンジ・ザ・競馬」にレギュラー出演していた。当人は馬家(ばか)を自称。

野呂榮太郎

1930年(昭和5年)1月、日本共産党に入党。2月20日『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より発刊され、1932年(昭和7年)5月より、マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わる。日本資本主義論争においては山田盛太郎、平野義太郎とともに講座派の中心人物とみなされた。しかし、病気と弾圧のために、野呂自身はこの講座に論文を執筆することはできなかった。

1932年(昭和7年)10月30日の熱海事件により党員が大量に検挙され、共産党は壊滅状態に陥る。

1933年(昭和8年)1月、肺結核で療養中であったが、3名の中央委員の一人として、指導部の再建に努める。 1933年(昭和8年)5月3日、党中央委員長山本正美が逮捕され、5月9日産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれる。党中央委員長となり宮本顕治らと再建活動を活発化させる。また塩沢富美子と結婚(時節柄、入籍はせず、事実婚)。8月1日の国際反戦デーに、ストライキ及びデモ活動を呼びかけるも失敗。8月23日、産業労働調査所が閉鎖される。9月6日の国際青年デー、9月18日満州掠奪戦争一周年記念日と反戦のための行動を矢継ぎ早に指示するもいずれも失敗。

アーサー・ビナード

アーサー・ビナードは20歳でヨーロッパへ渡り、ミラノでイタリア語を習得。ニューヨーク州コルゲート大学英米文学部を卒業。卒業論文を書く際に漢字・日本語に興味を持ち、1990年6月に単身来日。来日後、通っていた日本語学校で教材として使用された小熊秀雄の童話『焼かれた魚』を英訳した事をきっかけに、日本語での詩作、翻訳を始める。  現在は活動の幅をエッセイ、絵本、ラジオパーソナリティなどに広げており、日本国内各地で講演活動等も行っている。

主な詩集に、『釣り上げては』(思潮社)、『左右の安全』(集英社)、『ゴミの日』(理論社)など。訳詩集に『日本の名詩、英語でおどる』(みすず書房)など。

新田次郎の小説以外の仕事

新田次郎の気象職員として最も知られている仕事に、富士山気象レーダー建設がある。これには、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が要請され、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど、気象測量機の第一人者にして高山気象研究の専門として携わった。

富士山気象レーダーは当時世界最高(高度)・世界最大であったため、同レーダーの完成後はそのノウハウを国際連合の気象学会で説明するなどの公務に明け暮れた。この時の体験を基にして書いた作品が、小説『富士山頂』である。小説の解説を題材にした連載が会計検査院の定期誌「会計と監査」に題材として連載された。

町田康の文体

活動当初から独自の文体、語法、話法を確立しており、スラップスティックな笑いと奇怪なイメージや語彙、語りのリズムがストーリーより前面にフィーチュアされる独特の作風で知られる。描写におけるナンセンスと馬鹿馬鹿しさの徹底ぶりは、上方落語を筆頭に時代劇、河内音頭、ロックなどの影響があるとされる。また基本的なプロットの大枠は嘉村礒多や近松秋江等の第二次大戦以前の破滅的な私小説や、織田作之助、太宰治などの新戯作派の系譜を受け継ぐと評される。

代表作

田中康夫の代表作といえば、なんとなくクリスタル。

東京に暮らす女子大生兼ファッションモデルの主人公・由利の生活を中心に、1980年当時の流行や風俗を独自の視点と文体で描いた。東京で生まれ育った比較的裕福な若者しか理解できないブランドやレストラン、学校や地名などの固有名詞がちりばめられており、それぞれに田中の視点を基にした丁寧な442個もの註・分析が入っており、註の多さとその分析が話題になった。

作品の最後には人口問題審議会の「出生力動向に関する特別委員会報告」と「昭和54年度厚生行政年次報告書(昭和55年度版厚生白書)」から抜粋の、少子高齢化を示唆するデータも記されていた。注釈に関しては田中は新潮文庫版のあとがきにてあくまで理解を手助けするために付けたものであると語っている。注釈は第2作『ブリリアントな午後』を含め、田中の後の小説には引き継がれず、本作のみのものとなっている。ただし初期の作品集『ぼくたちの時代』には注釈が付された随筆や手記も収められている。

青梅マラソンの拡大

青梅マラソンの第1回は1967年3月に開かれた。1964年東京オリンピックの銅メダリスト円谷幸吉が参加したことから、キャッチコピーを「円谷選手と走ろう」としていた(しかし円谷の自殺による急逝(翌68年1月)で、このキャッチコピーは第1回限りとなってしまった)。当時、一般市民が参加可能なマラソンレースはなく、著名なアスリートと一緒にレースに参加できる大規模な大会として有名になり、今日に渡って全国から参加者が集まる市民マラソン大会となった。2006年までは2月第3日曜日の開催で親しまれたイベントであったが、2007年と2008年では同日に東京マラソンが開催されることになったため、2月第1日曜日に日程が前倒しされた。2009年の大会は、東京マラソンの日程変更に伴い従来の開催日である2月の第3日曜日、2月15日に開催された。2010年の大会以降は、従来通りの2月第3日曜日に開催されている。