小僧の神様によって

小僧の神様によって、滋賀直哉は小説の神様と言われるようになる。

神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。

しかし、Aに見られていたことを知らない仙吉は「どうして鮨を食いたいことをAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。

ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し残酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。

後漢書

『後漢書』東夷伝の中には倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」は成立は280年代とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基に作られているとされるが、反論を唱える学者もいる。

「魏志倭人伝」にない記述として、安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 永初元年(107年)に倭国王帥升が人材(労働者)を百六十人を献上したとある。これが史料に出てくる初めての倭人と言うことになるが、一文のみで詳しいことは分かっていない。一説には万里の長城の建設人員を倭国に求めたという。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱についても桓帝・霊帝の間(146年 – 189年)と非常に大まかではあるが年代の指定がある。

カラスのジョンソン

カモメのジョナサンならぬ、カラスのジョンソン。

かつてドリアン助川として叫ぶ詩人の会を率いた、明川哲也の小説。

傷ついた一羽のカラスと二人の人間が出会い、物語は始まる。

二人きりで生きる母と息子に、傷を癒されたカラスは野生に帰り

生きることの困難の中で、それぞれが季節をこえていく。

都会の害鳥として処分されてしまう、カラスたちの叫びと悲しみ。

生活の困難に耐えきれず、親子もまた窮地にたたされる。

まっすぐに蹴る

佐竹雅昭の著書。

一言で表してしまえば暴露本である。

「大卒後、テレビ局の内定を蹴って正道会館の専従職員となった」「しかし驚くような少ない給与でコキ使われた」「ファイトマネーを石井氏に搾取された」「自分の知らない所で勝手に試合が組まれ、奴隷のように酷使された」「得をするのは奴隷を酷使する奴隷商人」「過酷な試合スケジュールの中で心身ともにボロボロになった」「死亡した後輩(→実名を公開)もいる」「石井氏を空手の師と思ったことはない」

結構凄い内容だ。

 

和書

日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。日本にいつ紙が入り、製紙術が伝えられたのかは分かっていない様子だ。日本書紀には、610年に曇徴が来朝し、絵具・紙・墨を巧みに作ったと記されている。おそらくは日本における碾磑(みずうす)の創製者であるとは書かれているものの絵具・紙墨については言及がない。

したがって、彼が来朝する以前には製紙術は伝わっていただろうと考えられる。現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮、三椏などですいた優れた紙の本が生まれている。

二つの名前

カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カーだった。

前者の方がペンネームなのだという。

ペンシルベニア州ユニオンタウンに生まれる。父ウッダ・ニコラス・カーは弁護士で下院議員や郵便局長も務めた。1921年にハイスクールの学内誌に発表した推理小説が最初の創作である。ハヴァフォード・カレッジに在学中も、学生雑誌に歴史小説やアンリ・バンコランの登場する推理小説を発表する。同人の中にはやはり作家として名を上げるフレデリック・プロコシュ(Frederick Prokosch)がいた。数学の単位が取れず2年で中退するとパリに遊学した。

帰国後、同人誌に発表した中編「グラン・ギニョール」(Grand Guignol 1929年)を長編化した『夜歩く』(1930年)が評判となり、専業作家の道が開けた。同作は発表年のうちに邦訳が刊行されている(『夜歩く』 内山賢次訳 天人社刊)。1932年にイギリス人クラリス・クリーヴスと結婚してブリストルに居を構えた。1946年まで続くイギリス時代に代表作の多くは発表されている。翌年には、二つの名前でより多くの作品とより多くの収入をと考え、『夜歩く』や『魔女の隠れ家』(1933年)に似たトリックを用いた『弓弦城殺人事件』を執筆し、クリストファー・ストリート(Christopher Street)というペンネームまで決めていたが、カー・ディクスン(Carr Dickson)という実質本名に等しい名の下に刊行されるというトラブルが発生した。これは問題の名義を手直ししてカーター・ディクスンとすることで解決した。ディクスンの正体は1950年代まで公式には明言されなかった。1934年にはロジャー・フェアベーン(Roger Fairbairn)名義でも一作を刊行するが、生前は秘密だった

著作集

岡本太郎著作集。

芸術家、岡本太郎が1940年から1979年までに執筆した芸術論、文化論、エッセイ、書簡、発言記録などから主要なものを選び、講談社から全9冊構成で編纂出版されたもので、岡本の文筆家としての初めての選集となった。各巻の口絵には岡本の絵画作品が原色版で掲載され、月報には各界の文化人によるエッセイや、収録された著作の初発表時における書評などが載録されている。造本はB6判の布装ハードカバー、箱入りの形態で、装幀も岡本自身が手がけており、全巻並べると箱の背に岡本の絵画作品『黒い太陽』が現われるようになっている。

「岡本太郎著作集」は、講談社で1979年10月から1980年6月にかけて毎月1冊ずつ刊行された。当時の定価は各巻2500円。1980年代半ばには絶版となったが、岡本の著述が大系的に集大成され、その芸術の受容史を窺い知ることができる著作集として、岡本の業績の再評価が進み、多数の著作が再出版されている現在においてもその評価は高い。

これほどの選集が、何故絶版になったのだろうか。大変気になる。

阿川弘之

日本の戦記小説家といえば、阿川弘之がまず浮かぶ。

広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。

阿川は『私の履歴書』では、[私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。

らも

中島らもは、昭和後期-平成時代のプランナーであり、小説家であり、ミュージシャン。
昭和27年4月3日生まれ。広告代理店勤務をへて独立。テレビ番組の構成者,ラジオのディスクジョッキー,エッセイスト,ミュージシャンなど多方面で活動。平成4年「今夜,すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞,6年「ガダラの豚」で日本推理作家協会賞。劇団リリパット・アーミー主宰。

平成16年7月26日死去。52歳。兵庫県出身。大阪芸大卒。本名は裕之。

その著書の数々は、やはり異彩を放っている。

ブッチャー自伝

アブドラ―ザ・ブッチャーの自伝によると、彼は小学生の頃から新聞売り、不用品を回収し売りさばき、中学卒業後は靴磨き、押しかけ清掃など様々な仕事をしてきたという。仕事の一方で12歳から警察学校の無料講習で柔道と空手を習う。

「私のスタイルには絶対にスピードが必要だと考え、とにかく毎朝ひたすら走った。私のような体型の者が疾風のようにリングを走り、素早く相手を捕まえ、底知れぬスタミナを持ち合わせていたら、それだけで金になる。」

ブッチャーはストイックだったのだ。

但しこれを書いたゴーストライターはブッチャーの事をあまりよく知らないのかもしれない。
そう思える表記もいくつかあった。